2可塑性の解発(図2)

【図2】海馬切片にLTP解発刺激を与えた場合の細胞内カルシウム濃度変化

 Sと記した部位に刺激電極を当てて2秒間電気刺激を行うと、その下流のCA1領域シナプス層にカルシウム濃度上昇が起こり(黄色表示が上昇を示す)、それは3分以上残存している。
Sでみられる濃度上昇はシナプス活動ではなく細胞の直接電気刺激によるもの
(東京薬科大・工藤佳久教授提供)。

 前節で説明したように、神経細胞間での情報伝達は、軸索末端まで届いた電気信号をいったん切り、化学物質の放出・拡散・受容・電気信号の再発生という手順を踏んで行われる。軸索末端まで電気信号がきているのだから、次の神経細胞にそのまま電気信号を伝えるようにしたらよいのにと思われるかもしれないが、わざわざ手数をかけるには重要な意味がある。

 手順が多いほど、調節をかけることが可能になる、例えば係留されていた小胞の数が増えたり、Caチャネルの数が増えたりして伝達物質の放出量が増せば伝達効率は高まるだろうし、放出量は同じでも受容体の数が増えたり、活動電位の再発生を助けるように形態が変わるなどすれば、やはり伝達効率は高まる。そして実際に脳内でそういうことが起きている。こうした伝達効率の変化現象を『シナプス可塑性』といい、変化を起こさせる要因を『可塑性解発刺激』と呼ぶ。

 1972年プリスとレモは、ウサギの脳で海馬(側頭葉の内側にある大脳皮質の一部)への入力神経を高頻度で刺激するとその後伝達効率が数倍増し、その効率アップ状態が何日間も続くという現象を発見し、長期増幅現象(LTP)と名づけて発表した。これが、それ以前には心理学の専門領域とされていた記憶現象を細胞生物学の研究対象に引き下ろした記念すべき報告である。

 同じころ急速に進歩した生化学的な微量分子解析技術の進歩と分子生物学的な解析方法とが、このLTPの機構解析に導入された結果、現在までにかなり詳細に機構が解明されている。また、海馬だけでなく、ほかの脳領域でも同様な現象や、その全く反対の現象(ある刺激を行うと伝達効率が下がって、その状態が維持するる現象で、これを長期抑圧現象と呼び、やはりシナプス可塑性の一種といえる:LTD)がみつかっている。LTPにはいくつかの型があるこが知られているが、最も典型的な型について説明しよう。

 中枢神経系で伝達を担っている伝達物質の主役はグルタミン酸である(1−1)参照)。開口放出されたグルタミン酸をとらえて伝達を完成させるグルタミン酸受容体には、大きく分けて2種類がある。一つはAMPA型(この受容体に選択的に働く人工アミノ酸の頭文字から命名したもの)、もう一つはNMDA型(この受容体に選択的に働く人工アミノ酸の頭文字)という。現在ではそれぞれ単離され分子構造もわかっている膜蛋白質である。

 しかし、NMDA型グルタミン酸受容体(以後NMDA受容体と略す)は、ふだんはシナプス間に多量に存在するMg2+によって塞がれており、グルタミン酸がきたからといって活動できない状態にある。
ふだん活動するのはAMPA型グルタミン酸受容体(以後AMPA受容体と略す)で、グルタミン酸を結合すると扉を開いてNaを通す。2−1)で、脱分極で扉を開いてNaを通す電位依存性Naチャネルの話をしたが、AMPA受容体はグルタミン酸依存性Naチャネルといい換えることもできる。こうして細胞外から濃度勾配にしたがってNaが流入して起こる変化は脱分極であり、これを興奮性後シナプス電位(EPSP)という。EPSPが十分な大きさに達すれば、電位依存性のNaチャネルが働きだして活動電位を生じ、軸索を下がっていく。

 上にLTPは高頻度刺激によって解発すると説明した。高頻度刺激とは、軸索末端が続けざまに興奮を繰り返し、グルタミン酸が次々と開口放出され、EPSPが連続的に発生することである。するとNMDA受容体が重い腰を上げる。NMDA受容体のMg2+閉塞は持続的脱分極によって解放される。AMPA受容体の活動で発生した脱分極がまずあって、なおグルタミン酸がAMPA受容体に届いたとき、NMDA受容体は活性化してCa2+を通す門を開ける。したがってNMDA受容体は電位/グルタミン酸両者依存性Caチャネルといってもよい。こうしてシナプス後細胞内にCa2+がどっと流入することになる。

 LTPはこのCa2+濃度上昇をきっかけとしてはじまる。5−2)で登場するCa2+/カルモジュリン依存性蛋白キナーゼやCa2+/リン脂質依存性蛋白キナーゼが働き出し、いろいろな蛋白質をリン酸化する。その中におそらくAMPA受容体も含まれているのだろう。
リン酸化されたAMPA受容体は活性がアップし、その結果、高頻度刺激が終わってNMDA受容体活性化もCa2+濃度上昇も刺激前に復した後でも、AMPA受容体が以前より数多くグルタミン酸を待ちかまえている状態が続く。これがLTPである。しかし、これだけではリン酸化状態がやがて元に戻るとともにLTPも消えてしまうので、おそらく何らかのほかの機構が働いて、リン酸化を長続きさせるなり、AMPA受容体蛋白の合成量を増すなりの機構が続くのだろう。

 このような機構であるから、LTPの成立はいろいろな処置で阻害することができる、細胞外液からCa2+を除いても、NMDA受容体を阻害剤で抑えても、細胞内に入ったCa2+を吸着して細胞内Ca2+濃度が上がらないようにキレート剤を注射しても、あるいはCa2+依存性蛋白キナーゼを阻害しても、LTPは起こらなくなる。『記憶にはカルシウムが重要』といういい方がなされるが、それはこのような意味である。

3)細胞骨格の変化

 細胞内には多種類の繊維状の構造があって、細胞の形・張力の維持や物質輸送や運動に関わっている。その典型的な例はTー4章で解説される筋細胞の収縮だが、同様の細胞骨格の制御機構を、すべての細胞は発達の程度の差こそあれ備えている。

 神経細胞は非常に特異な形をしている。細胞体から一方に1本の『軸索』という細い繊維を、足の指先の運動神経ならば、脊髄からそこまで1m以上にわたって伸ばし、他方に『樹状突起』というやはり細い繊維を、伝達を受け取るアンテナとして張っている。このような繊維状の構造は、内部にそれを支えるような構造がなければたちまち崩れてしまう。1m先の末端まで補給を絶やさないためには、物質輸送の装置がなければならない。また、神経細胞が新たな結合相手を探していく際には、当然運動装置が働いていなくてはならない。

 構造維持と輸送に関わる骨格から説明しよう。軸索の内部には微小管という直径25nm の管が何十本も走っている。微小管は、チューブリンという、一つ一つはダルマ型をした蛋白質がぎっしり並んだ(重合した)構造である。微小管からはマップ類と呼ばれる蛋白質でできた『枝』が細胞膜に向けて突き出ており、膜を下から支える梁になっている。軸索中を運ばれる物質や構造体には、キネシンと呼ぶ蛋白質が付着し、この分子がエネルギーを消費しながら当構造体を微小管の上で転がし下ろす(末端から細胞体の方へ上がっていく際には、ダイニンという別の蛋白質が構造体を微小管の上で転がし運ぶ)。というわけで、微小管は神経細胞の形態と機能を維持するうえで大変重要な構造である。この構造がCa2+によって大きな影響を受ける。

 そもそも微小管は安定で不動の構造ではなく、たえず一方の端で削られ(脱重合し)他方の端で伸び(重合し)ており、そのバランスで見かけ上一定の長さに保たれている。微小管の短縮と伸長のバランスはCa2+濃度が約10-5Mより高くなると短縮側に傾き、ある時間以上それが続くと微小管は崩壊する。死につつある神経細胞でCa2+濃度が高まると、軸索は数珠のようにブツブツと寸断されてしまう。このようにCa2+は軸索にとって強い毒物である。

 前節まで、Ca2+濃度が高まって伝達物質が放出されるとか、Ca2+濃度が高まって記憶が成立するとか、Ca2+の『膳玉』の面を強調していたのに、ここで急に『悪玉』の話になつて当惑されたかもしれない。しかし、細胞内のCa2+は基本的には毒物である。だからこそ、ふだん大量のエネルギーを費やして細胞内のCa2+を低く保っている。細胞はその毒物がほんの短時間細胞内に入ることを許して信号に使うという、実に危ないことをしている。したがって、細胞がCa2+上昇を許す空間は自衛上ごく限られた範囲内で、伝達物質の放出の際にCa2+濃度が10-5M以上に上がるのも、NMDA受容体の活性化でシナプス後細胞のCa2+濃度が上がるのも、CaチャネルやNMDA受容体の近傍1μm以下に限られている。

 次に運動の機構について話を進めよう。伸長しつつある神経突起(軸索と樹状突起)の先端は、成長円錐と呼ばれるアメーバ状の触手様構造になっていて、指のような細い突起をさかんに出し入れしながら、特定の方向(例えば誘引物質の濃度の高い方向)へ這い進んでいく。このとき、成長円錐内の細胞骨格は、重合と脱重合とを繰り返して高速に再編成していなければならないが、これにはゲルゾリンやアクチノゲリンという蛋白質が深く関わっている。これらの蛋白質の活性は10-6M程度のCa2+濃度で変化する。したがって、細胞内のCa2+濃度を調節する機構が、間接的に突起の伸長も制御していることになる。

4)神経細胞の生死

 私たちのからだの免疫系が侵入した細菌を殺す際には、抗体がまず細菌にとりつき、それに補体という蛋白質群が結合し、補体がつくるカルシウム流路が細菌の細胞内にCa2+を大量流入させて細菌を破壊する。細胞質内のCa2+濃度の高い状態が持続すると破壊されるのは細菌ばかりではなく私たち自身の細胞も同様である。
細胞質にはCa2+によって活性化される酵素が多種類あるが、その中に蛋白質分解酵素や脂質分解酵素がある。それらが『誤って』活性化されれば、細胞自身の構造や細胞膜を分解し、消化してしまう。前節でCa2+は本質的に毒であると述べたのはこの意味である。

 脳の血管が詰まったり(脳血栓)破れたり(脳溢血)して、そこから先に血がいかなくなると、ふだん大量のエネルギーを使って汲み出していたCa2+が汲み出せなくなって神経細胞内のCa2+濃度が上昇しはじめる。すると、3−1)で説明したようにグルタミン酸の開口放出がはじまる。すると3−2)で説明したようにNMDA受容体が活性化されて細胞内にCa2+が流入する。ただでさえ汲み出しきれなかったCa2+のうえに、新たな流入が加わるわけである。
さらに、神経細胞内にはこのCa2+を利用して伝達効率を高めていく機構が備わっているわけだから、これが仇になってますますグルタミン酸の放出→NMDA受容体の活性化→Ca2+の流入というサイクルが回ってしまう。脳細胞が酸素欠乏に弱いのにはこのような背景がある。

 脳溢血や生埋め事故のように神経細胞の大量死が起きるような事態でなくても、ちょっとした局所的な血栓や出血で少数の神経細胞が破壊されるような事態は、実は日常生活の中で頻繁に起きているのだろう。

 日本人の老年痴呆の過半数を占める脳血管性痴呆(残りはアルツハイマー型痴呆)は、このような脳血管障害による神経脱落が蓄積して発症すると思われる。ただし、これを防ごうとして神経細胞の周囲からCa2+を除くと(生体の恒常性維持機構が働くからそういうことは実際はできないが、かりにできたとしても)、シナプス可塑性も止めてしまうことになるから意味がない。血管が壊れないよう高血圧を防いだり、血管が詰まらないようコレステロールの蓄積を防ぐことを考えるべきである。