(太 古) 牛乳は、人類が歩んできた歴史とともに古く古代エジプト人
やメソポタミアのシュメール人たちが、牛から乳をしぼり、それを飲んでいたことをしめす、壁画やレリーフ(浮き彫り)が残されています。 また、旧約聖書の中にある
旧約聖書には、ユダヤ人の始祖アブラハムは、『発酵乳と新鮮な牛乳で三人の天使をもてなした』と記されています。 また、モーゼは、『発酵乳は最高唯一神であるエホバが、民衆に与えた食べものである』と、同じ<<旧約聖書>>の中で讃えています。 新約聖書では、救世主キリストが、乳について『滋養に富んだ大事な飲みものである』と、説いて歩いたと書かれています。 イスラム教の祖マホメットは、発酵乳を布教に積極的に利用したといわれています。 病気に苦しむ信者に醗酵乳からつくった乾燥発酵種を『神から賜った霊薬』といって渡し、家畜の乳に入れて発酵乳にして飲むようすすめていました。 仏教の開祖釈迦(ゴータマ・シッタルタ)にも、乳をめぐるエピソードが残されています。 悟りを開くため出家して山奥で断食苦行をしていた釈迦は、悟りが開けぬまま衰弱したからだで山を下りていきました。その途中、出会ったひとりの乙女スジャータから 1杯の乳粥 を捧げられます。あまりのおいしさに驚き、その瞬間に悟りを開いたというのです。 (スジャータから乳粥の寄進をうけた壁画彫刻→【こちら】)
弥生時代に牛乳を飲用したことを証明する考古学的資料はありませんが、【日本書紀】巻3に、神武天皇東征の折り、弟猾(おとうかし)という者が、『牛酒』(ししさけ)をふるまい、天皇はそれを将兵に賜ったという話があるので弥生から古墳時代にかけて、牛乳が飲用されていた可能性もあるとかんがえられます。 仏教の教典である【涅槃経】の ”14 ”には、
との記述があり、修行の過程を
と乳製品の製造過程に例えて、釈迦の修行及び教法をといています。 後年、お釈迦様はその体験に基づいて、牛乳や乳製品は、『食料となり、気力を与え、皮膚に光沢を与え、また、楽しみを与えるもの』として賞賛しています。 『醍醐』というのは『乳、酪、生酥、熟酥、醍醐という五の第五。乳を精製して得られる最上の美味なるもの』の意で、同時に仏教の最高真理に例えられています。 (中世) わが国の牛乳飲用の歴史も意外に古く、飛鳥時代にまでさかのぼります。 もともと帰化人のあいだでは牛乳飲用の習慣があり、飛鳥時代、知聡の子の
善那が始めて
孝徳天皇に牛乳を献上しました。 この『善那』は
【類聚三代格】には『福常』
となっていますが、同一人物です。『福常』があとから天皇にいただいた日本式の名です。 福常の子孫は代々この業を伝えて朝廷に仕え、 京都右近の馬場西に典薬寮の別所として乳牛院がおかれ、摂津国味原に牛牧の牛をつれてきて乳を搾って代々、朝廷に献上するようになります。 大宝律令には「『乳の戸』 という言葉があり、国有の牧場があったようです。 701年に制定された大宝律令では官制の乳の戸という一定数の酪農家が都の近くに設けられ、三宮に毎日 三升一合五勺を 供御し、余りは煮詰めて濃縮した、今日でいう練乳のような『酥』と呼ばれる乳製品もつくられるようになり『酥』は精製され、現在のチーズかバター近い『醍醐』に加工されました。 平安時代には、この貢酥の制度が盛んになり醍醐天皇の927年に定められた法典 【延喜式】典薬寮の部には『諸国貢酥の番次』といって関東から九州にいたる諸国を六地区に分け、納める年、数量が決められていて、諸国から貢ぎ物として献上されます。 しかし、古代から平安期にかけては、牛乳や乳製品を口にしていたのは主に貴族でした。 天武天皇の孫で、奈良時代初期の悲劇の 宰相長屋王の邸宅跡から、約3万点の木簡が出土しました(S63.9.12)。 貢酥の制度は、平安時代の終わりごろ戦乱が多くなって、朝廷の勢力が弱くなるにつれて、すたれてしまいます。 (近世) 約600年の空白時代を経て1790年代頃より徳川幕府は、
『白牛酪』 という乳製品を製造したと伝えられています。 牛乳として飲んだ記録は、安政3年8月5日(1856年9月3日)静岡県下田市柿崎31-6『玉泉寺』に我が国に於ける最初の米国総領事館が開設され、総領事『ハリス』は日米通商条約に努力されましたが、安政5年(1858年)2月4日、江戸時代末期、政務多忙を極め病床にありました。『お吉』は、ハリスが牛乳を欲するのを知り、下田近在から、和牛の乳を集めハリスに15日間与え異国の生活をねぎらったという有名な話しが残っています。 この間飲んだ牛乳9合8勺の代価が1両3分88文は、米3俵分に相当しますので、当時いかに高価であったかが分かります。 玉泉寺境内に 『牛乳の碑』があります。この碑は、伊豆が創業の地である森永乳業が建立したものです。 (近代) 牛乳・乳製品が大衆の間に普及していったのは、明治に入ってからです。 牛乳屋さんは文明開化の新商売で、禄を失った武士たちがこの世界にどんどん入ってきたとされています。 当時の横浜は日本の文明開化・乳文化のメッカでもあり、 明治政府は、殖産興業の一環として酪農を取入れ、そして牛乳の栄養価値のある優れた食品であることを説かれました。販売方法も、ブリキ缶にいれ秤売りから始まり、1889年には、『牛乳搾取規則』ができガラス壜で売られるようになりました。 1899年には、牛乳を殺菌して売るようになり、『牛乳営業取締規則』によると、62℃30分加熱殺菌法が採用されました。このため、牛乳殺菌及び充填に伴う、衛生的な設備投資が要求されましので、1933年頃より個人企業から会社企業に組織を変えて発展するようになりました。 (現代) 第2次世界大戦中は、技術的にも進歩が遅れ、また苦しい時代でもあったので消費も伸びませんでした。 そして有畜農業を積極的に導入したため酪農を中心とした農業形態となり、酪農乳業は急速に発展をしました。 特に1950年以降は、殺菌技術の導入、紙容器の普及による、生産性、品質管理の向上等、技術の進歩により乳業が顕著に発展しました。 反面、販売流通面において、従来の宅配専売店からスーパーマーケット・コンビニエンス・生協等の量販店が急速に発展したため、消費量の増大により、牛乳等の広域化と商品多様化等により食品産業の中で重要な位置付を形成をしています。 |